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MANABLOG

会社を退職して独立への道を進んでいる25歳。趣味は合唱と指揮と20世紀前後のオペラ歌手鑑賞。

日本人なら読んでおきたい、丸山真男の「『である』ことと『する』こと」の感想

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丸山真男の名著「『である』ことと『する』こと」は現代にも恐ろしく当てはまる

高校の教科書でおなじみ、丸山真男の名著を読みました。

これは今から50年近くも前の話なんですよね、昭和30年とか。

半世紀も前の内容だから、カビの生えた内容だろう、というとそれは違います。

カビが生えているどころか、現在にもバッチリ通用する、
それどころか「え、それ、ボクのことですか?」と感じるレベル。

 

むしろ現代に生きる人こそ、読んでみるべき作品だと感じました。

  • 日本の民主主義は本当に民主的なのか
  • 一般市民を巻き込んでの民主主義のはずなのに、政治が政治家の専有物のようになってしまったのはなぜなのか
  • なぜ、日本の会社では、会社を出ても「上司」と「部下」の関係が保たれるのか
  • 逆に、欧米の会社では、会社を一歩でると「社長」も「ヒラ」も同一になるのはなぜなのか
  • 本当の意味で自由にあるために必要なこととは
  • 「である」論理と「する」論理の倒錯する今日、我々の考えるべきことは

 

目ぼしいところをピックアップしてみました。

このような内容を考えるヒントを提供してくれる本です。

 

「権利の上に眠るもの」

まず、このような例え話からスタートします。

学生時代に末弘先生から民放の講義をきたとき「事項」という制度について次のように説明されたのを覚えています。

金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、

この規定の根拠には、権利の上に長く眠っている者は民放の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。

(本文より抜粋)

※太字段落は当ブログ管理人による

 

読んだ通りの内容ですね。

要するに、「オラァ貸し主なんだぜ!」とただふんぞり返っている人は、民法で保護しませんよってことです。

 

さらに言いかえれば、貸主であるのか、貸主としての権利を行使するのかの違い。

つまり「である」ことと「する」ことの間には、大きな隔たりがあるんですよ、と言っています。

 

自由とはなにか

で、この「である」ことと「する」ことの話は、自由へと飛びます。

私たちの社会が自由だ自由だと言って、自由であるkとを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。

自由は置物のようにそこに"ある"のではなくて現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうと"する"ことによって、はじめて自由でありうるということなのです。

 

なんだかギクッとしてしまいます。

丸山真男はさらに続けます。

 

その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好むもの、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、モノ簿との判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ちあがるよりもそれにふかぶかと寄りかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。

 

もうぼくなんかはグサリグサリと来てしまいます(笑)

 

分かっているんだけど、果たして自分は自由になろうとする行動を起こしていただろうか、それは十分なものだろうかと振り返ってしまう。

読み手にそう思わせる文章です。

 

さらに、自分は自由だぜッと思いこんでいる人への警鐘も鳴らしています。

自由人という言葉がしばしば用いられています。

しかし自分は自由"である"と信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身"のなかに"巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではないのです。

逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつまでも見つめている者は、何とかして、"ヨリ"自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、"相対的"に自由になりうるチャンスに恵まれてることになります。

 

「あんたは自由だと思ってるのかもしれないけど、それは驕りかもしれないよ。」

「自由だと思い込んでると、いつか足元すくわれますよ。」

こんな感じですね。

 

「である」論理と「する」論理の倒錯

で、自由の意味から、制度の在り方、社会の在り方へと話は飛んでいき、現在の日本へ至ります。

 

そこでは、「である」論理と「する」論理が倒錯  つまり逆転  が起きていると丸山真男は言っています。

 

どういうことか。

それは、本来ならば「する」論理によってチェックされるべき制度に、「である」論理がはびこってしまう。

あるいは逆に、「である」論理が保持されるべき所に、行きすぎた「する」論理が適応されてしまっている、ということです。

 

前者の良い例が政治です。

言ってみれば、なにをするかではなく、どんなポストについているかが重要な意味を持ってくる世界。「機能」ではなく「属性」が優先されている世界のことです。

ここでは本来、なにをするか、どんあ構想を実現するかで判断されなければならないことが、過去の功績や政治的なポストの有無によって判断されてしまう。

こうした逆転が生じている、と。

 

一方で後者の例が、これは本に書いてあることではなく、ぼくが読んで感じたことですが、親や学校の先生と子供の関係です。

かつては、「親である」「先生である」といった「属性」が、圧倒的な力を持っていたものですが、これが近年壊れてしまっていますよね。

 

自分を生んでくれた唯一無二の親ではなく、食事と睡眠とお金を提供してくれる人。

人としての在り方を教えてくれる先生ではなく、受験対策をしてくれる人。

 

まぁこんなのは極端な言い方ですけれど……

「である」論理が守られるべき領域に、「する」論理が入りすぎてしまった結果の一つがコレです。

 

思ったこと

ということで、本の内容を一部紹介させていただきました。

どうでしょう、50年前に書かれた本とは思えないですよね。

物事の本質を見抜いて書かれた本ってのは、半世紀くらいじゃあ色あせないんだなぁ、と感嘆のため息をつくばかりです。

 

よく自問自答するんですけどね、

「会社を辞めたからハイ自由、なんてのはありえないよなー」って。

そこから一歩二歩踏み出してこそ、本当の(丸山さん的には相対的に・笑)自由なわけで。

 

ということで、丸山真男より「『である』ことと『する』こと」を紹介させていただきました。

決してサラサラと読める本ではありませんが、一文一文読みこんでいけば、決して読めない本ではありません。

 

高校生の時に教科書にあった! って人も多いかと思います。

改めて読んでみると、全然違う印象を受けますよ。ぼくは違いましたもん。

 

この機会にぜひ!